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この国を滅ぼしたくない

かつのりコラム

高橋かつのりが自身の考えや想いを綴るコラム『夢だより 風だより』

夢だより 風だより【第四十二想】
2003.02.01

 映画「たそがれ清兵衛」。幕末の庄内、海坂藩。主人公の井口清兵衛は御蔵役五十石の平侍である。妻を結核で亡くし、家には幼子二人と年老いた母がいる。生活は貧しい。勤めが終わると清兵衛は、上司同僚からの誘いをすべて断り、家で内職に勤しむ日々である。そんな清兵衛を藩士たちは「たそがれ清兵衛」と陰で揶揄している。題名の由来である。映画には、そんな清兵衛の境遇を不憫に思い心配してくれる人たちも登場する。この人たちに対し清兵衛はこう言う。「この子供達をじっと見つめている。毎日毎日成長していく。その姿を見ることで私は充分幸せでがんす」。

 

 映画「壬生義士伝」。幕末の京都、新撰組。主人公の吉村貫一郎は南部藩を脱藩した隊士である。名誉を重んじ、「義」とは「死」と信じ、明日をも知れぬ運命に翻弄される新撰組にあって、貫一郎は金銭を得るために戦った。生き残りたいと熱望した。大義名分、権力、名誉、そんなものはどうでもよかった。「守銭奴」と隊士達からさげすまれても、貫一郎にとって全ては、故郷の妻と子供を守りもう一度彼らをその腕で抱きしめるためだった。家族、友、仲間に対する貫一郎の愚直なまでの生き方に、隊士達は、この男の「義」とは「人としての愛」なのだと気付き始めるのだった。

 

 私たちはいったい、何のために生きているのだろう。何のために働いているのだろう。高度経済成長期のような社会の理想モデルが崩れ、何のために生きるのかの動機付けがしにくくなっている。自分が社会の責任ある構成員だという意識も希薄になってきている。これらのことに対して、最近前後して上映された二本の映画は、一つの方向を示しているように思う。「原点に返れよ、原点に返ってこそ無くしたものも含めて見えてくるのだよ」と。

 

 昨年十二月二十四日、塩谷広域行政組合の十年後のゴミ処理施設立地が高根沢町に決定した。困惑と驚きを抱いた町民の方々も少なからずいらっしゃったことを思うと、そのような思いをさせてしまったことに対しては心から申し訳なく、頭を下げるしかない。しかしこの決定を受け入れた私の考え方について町民の皆様に説明を申し上げたい。

 

 私の考え方は、昨年十一月号のこの欄で説明した立地決定の手法と考え方の延長にあるといっていい。そして今回の立地決定受け入れにあたっては、さらにこんな思いが私の心を支配していた。ゴミ処理施設が物理的・心理的に「迷惑施設」であり続けるかぎり、施設の耐用年数が来るたび毎に、迷惑施設の押し付け合いという大人の醜い姿を子供たちの前にさらすことになる。いくらキレイ事を並べても心の底では「絶対に必要なものだけれども、自分のところはダメ。そんな重荷は誰かが背負えばいい。重いものと軽い物があったら軽いものを率先して持つことが大人の世渡り」という姿である。そんなことを将来繰り返すことが分かりきっているのであれば、今を生きる大人として、私たちの代に私たちの責任で解決しなければならないのではないか。煤塵、臭気、ダイオキシンといった負の部分は、科学技術によって解決されつつある。であれば、醜い悲劇の連鎖はここで断ち切ることが子供たちに対する義務なのではないのか。幸いなことに、この広報に掲載した宇都宮大学の報告書の根底にも、同じ考え方が流れていた。そして、その考え方を実現できるのは、この高根沢町しかないのだとも言っているように思えた。

 

 最終的な場所の選定までには約三年という時間が与えられている。ボタンのかけ違いをしないように、多くの皆さんと議論を尽くしていくための方法を現在組み立てている。

 

 私は何故生きているのか。何の迷いもない、”この町の子供たちがいるから”、である。

■こちらのコラムに関して

こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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