時事通信社が発行している『地方行政』七月七日号巻頭言「道標」を書いたところ、全国から反響があった。読んでいただければと思い全文を載せる。
「身捨つる程の『自治』とはありや」
「公」と「私」の関係をもう一度見つめ直し、「生きることの規範」として再構築しなければ、この国は滅びるだろう。
ヨーロッパ各地の歴史的町並みは、自分の好き勝手に建物を建てたいという「私」を犠牲にしながらも、そこに住む人々の景観を優先する公共心によって守られて来た。また、ワシントン郊外の住宅地の景観は、自治会という「公」が、庭先の芝生の長さや、カーテンの色という「私」の世界にまで入り込んで守られている。実際にある商社マンが、長男の節句を祝い庭先に鯉のぼりを立てたところ、自治会から撤去勧告を受け、実行できなければ訴訟も辞さないと通告されたそうである。そこに貫かれているのは、豊かな「私」があるためには、しっかりとした、確かな「公」がなければならないという考え方である。
毎年秋、「落ち葉が迷惑だから役場ですぐに掃除しろ」という電話がたくさんかかってくる。萌えいずる若葉をもって人々の心を癒し、緑陰を渡る涼風を与えてくれた木々たちの落ち葉である。
かつてこの国の人々は、山川草木、はては路傍の石にも神々が宿ると考え、自らの汗をもって守ってきた。そこには共同体としての確かな絆による「自治」があった。地域住民による寺社や道の「普請」などは、その一例である。
現在の「自治」とは、誤解を恐れず極論すれば、住民が自助を忘れ数々の要求を突きつけることであり、一方行政側では、その要求をかわしながら、先延ばしし、玉虫色にごまかすこと、といえる。
そしてこのことが、市町村と県、地方自治体と国との関係性とまったく同じであることに愕然とする。とすれば我々に、住民からの要求を「わがまま」などと判じる資格はないことになる。
現在進められている合併論議の要諦は、賛成反対いずれの立場にあっても、合併を目的とするのではなく、本来の自治を確立するための手段とするべきこと、論を待たない。
自治を問い直す動きは確実に起きてきている。「合併しない宣言」で有名になった福島県矢祭町の根本町長の発言は傾聴に値する。「団体や町民ができることはしてもらう。『合併しない』は決して駄々をこねているわけではない。スリムで本来の行政サービスはちゃんと維持する。痛みも伴うが、自治本来の姿に戻ること、これしか生き残る道はない」。長野県栄村の「田直し」も示唆に富んでいる。「補助金をもらい補助基準で農地整備すると十アール当り百八十万円かかる。米価を考え村民と職員が協力して整備すれば約四十万円で済む。農家が必要な事業を決め、村が手伝う。補助金に縛られたままでは村も住民も立ち行かなくなる」。高橋村長は明快だ。栄村では住民が工事費を一部負担し、実際の工事にも参加する「道直し」も進んでいる。お仕着せの補助金を返上し、自らの知恵で地域をつくる、そんな実験が始まっている。
かつて江戸時代の日本は三百諸侯のそれぞれ独立した国が集まった連邦国家だった。幕府が財政の面倒を見てくれるわけではなく、藩政が立ち行かなくなれば改易となる。そのために諸藩は必死に産業を興し、人を育てた。特性を考え得意分野を徹底して探した。何のことはない、今で言うところの「経営マネージメント」を行っていたのである。
県内の合併論議の中に、残念ながらこれらの視点はない。合併特例目当ての議論ばかりが目立つ。だから「分権型合併」(地域内自治)の議論も他の地域では聞く事が出来ず、他の地域のほとんどの首長・議員が端から「実現不可能」と取り組みもしないのである。
地方自治体は、国主導という長き太平の眠りから覚めて、本来の「自治」を考えることから始めるべきだと思う。
■こちらのコラムに関して
こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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