今年の秋もまた、役場玄関に見事な菊の盆栽が飾られていた。桑窪の鈴木享さんが長い時間をかけて丹念に育てられた労作である。最近の菊は香りが無くなってきたなあと感じていたが、「黄寅」(これは菊の種類を表しているらしい)と書かれた札の立つ三鉢の盆栽は、菊本来の香りで玄関を満たしていた。
季節毎の香りは脳裏に焼きついた記憶を呼び覚ます。本格的な春の訪れよりも先に咲き匂う沈丁花の香りには、冬の寒さにじっと耐えてきた細胞がいよいよ解放されるという期待に満ちた躍動のリズムを感じるが、私には違う記憶がある。学生最後の年、新聞社や通信社の採用試験にすべて落ち、ほかに就職のあてもなく、さて自分のこれからの人生はどうなってしまうんだろうという漠然とした不安の中で、江戸川に近い六畳一間のアパートに帰る道すがらに沈丁花が強く匂っていた。悶々と考える日々。強気と弱気の交錯。自分の信念に安易な妥協はしたくないという自負。そんな不安と強がりの記憶が沈丁花なのであった。
菊の香りにともなう記憶はもっと幼い時代に遡る。神社、着物、千歳飴、町芸術祭。菊を眺める祖父の一服の姿。家族がいて地域の人達がいる。しかもすべてが優しい光に包まれている。私が最初に記憶した匂いは間違いなく菊であった。役場玄関の菊の香りに、どうしても立ち止まりたくなって無意識のうちに菊の匂いを胸一杯に吸い込もうとしていることがその表れである。
医学の面からこのことを分析するとなるほどと合点がいく。人間の五感の中で臭覚だけが太い神経で大脳辺縁系、視床下部に繋がっている。大脳辺縁系は快・不快・食欲・性欲・怒りといった動物としての本能行動を左右し、視床下部は生命中枢といわれるところで、体温・睡眠・摂食・自律神経・内分泌・免疫などを調節する。「アロマテラピー」(テラピーは仏語、セラピーは英語)という新しい言葉をご存知だろうか。翻訳すれば「芳香療法」。日本でも十年程前から医療、福祉、教育などに取り入れられ、ビジネスとしても成立してきている。ストレス性の不眠や自律神経失調症に効果があるらしい。確かに好きな香りを何度も深く吸い込むと心が落ち着く。これはドーパミンという快感ホルモンが脳から分泌されるからだという。
そうだとすると、私が役場の玄関を通るたびに、私の脳内からはドーパミンが分泌されストレスを癒してくれていることになる。本当にありがたいことである。
菊といえば秋、秋といえば芸術、芸術といえば「日展」。今年の「日展」では高根沢町から、洋画部門で大谷喜男氏が特選、加藤正士氏が入選。書では鈴木源泉氏が入選。工芸美術では加藤久敬氏が入選された。特に洋画において、応募総数一九五七点の中から僅か一〇点の特選に選ばれた大谷喜男氏は、今回で二度目の特選受賞となり、来年からは無審査という待遇になるという。いわば「免許皆伝、出入り自由」ということだろうか。
芸術とは縁遠い無芸大食の私ではあるが、今年初めてその「日展」なるものを観に行った。秋雨にたたずむ東京都美術館は大勢の方々で賑わっていたが、それにも増して、展示されている作品群の放つオーラに圧倒された。そして言葉を失った。芸術に造詣のない私に解説は不可能だが、本物のもつ力というものがいかなるものなのかを体感したということだろう。
大谷喜男氏は現役の国家公務員であり決して画業だけに専念することはできない環境にある。そうであれば厳しい自己管理と強靭な意志を抜きに、今日の氏を語ることはできないだろう。「路」と題された氏の絵と向き合ったときに、私は他の参観者がいるにもかかわらず静けさに包まれた。静謐と言った方が正確かもしれない。しかも静謐の向こう側にある得体の知れない何かを感じるのだが、無芸大食の私にはそこまでが限界であった。多分、いつも物静かで穏やかな氏の内面にある、常人では到底およびもつかない強靭な意思が絵の向こう側に潜んでいたのだと思う。
きっと「日展」でも私の脳内ではたくさんのドーパミンが分泌されたことだろう。
我が町の誇りとして、四氏のことを報告した次第である。
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こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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