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この国を滅ぼしたくない

かつのりコラム

高橋かつのりが自身の考えや想いを綴るコラム『夢だより 風だより』

新年のごあいさつ
2005.01.01

元日や 我は日本に 生れたり ―角田竹冷[ちくれい]―

 毎年、当たり前のように新年を迎え、「あけましておめでとうございます」と挨拶を交わすお正月ですが、お正月を彩る数々の飾りや食べ物には、日本独自の農耕儀礼が色濃く反映されているようです。

 

 俳人 宇多喜代子さんの「里山歳時記 田んぼのまわりで」という本は、そのことを季語を通して教えてくれます。

 

 生活も食糧事情も厳しかったかつてのお正月は、今年も豊作でありますようにという願いを込めた予祝行事でした。穀霊[こくだま]の宿る餅を鏡餅にして飾ることや、稲の花に見立てた餅花を飾ることなどは、すべて穀霊に対する畏敬の気持ちのあらわれだったのです。来臨される歳徳神[としとくじん]という神様を迎えるために「門松」を立て、ここからは不浄な気は入れないというしるしに注連縄[しめなわ]を張りました。「年神様」に失礼のないように元日は火を使わず、箒も使わず静かに過ごしました。だから「初風呂」は二日と決まっていたのです。「屠蘇[とそ]」や「福茶」を飲み、お節料理として縁起物を食べ、新年まで待った「春着[はるぎ]」を着てお祝いをしたのです。お正月の天地の間に満ちるめでたい気配をあらわす「淑気[しゅくき]」という季語には、絶対神としての自然に左右されながらも、豊作を切実に願わざるを得ない人間の、感謝と希望が満ち溢れている気がいたします。

 

 「淑気」とは反対に、残念ながら日本は今、例えようのない閉塞感に覆われています。かつて作家の村上龍は小説「希望の国エクソダス」の中で、「この国には何でもある。だが、希望だけがない。」と書きました。不幸にもその予言は的中してしまったのかもしれません。久しく改革が叫ばれて来たにもかかわらず、先人の築いてくれた財産を取り崩しながら何とか部分的に取り繕って乗り切ろうとしたことが、かえって状況を悪くしてしまったのです。

 

 今年は我が町にとっても、大なり小なり皆が持っている既得権益を捨てていただかなければならないことがあるやも知れません。そのことによって批判もあるでしょう。しかし「次の選挙を考えるのが政治屋。次の世代を考えるのが政治家。」であるならば、私は後者を選びたいと思います。

 

 日本に生れたる者であれば、この国が滅びないための「町普請」元年として、新年を迎える思いです。淑気のなかで。

■こちらのコラムに関して

こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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