郷土料理の岩窟王「しもつかれ」
寒さが一年で一番厳しい季節になりました。この時期、真っ先に思い浮かぶのは我が郷土料理「しもつかれ」です。私にとっては誇るべき郷土食なのですが、他県から移り住んだ人々からは散々な言われ方をするのです。
「人間の食べるものではない!」
「駅のホームにこれを撒いたら…?」
「ビニール袋に入れて持ち歩かないで!」
などなど。
私は密かに「しもつかれ」のことを、郷土料理の岩窟王エドモン・ダンテスと呼んでいます。
「しもつかれ」は節分の後の初午の日に作ります。節分でまいた残りの豆を使い、正月に食べた塩鮭の頭、油揚げに冬の寒さでスが開いた大根とニンジンを鬼オロシ(※)で下ろして加え、大鍋でコトコトと煮込んでいく。最後に酒粕を手でちぎって加え酒粕が溶けたら出来上がりです。塩鮭の塩分があるので原則として調味料を使う必要はありませんが、家々によって醤油や味噌、砂糖を加えるのはもちろん、酒粕の量もちがいます。したがって同じ味の「しもつかれ」はなく、それぞれの家独自の味付けがなされているのです。「福は内、鬼は外」の元気な掛け声が響き終わると、私の祖母は野菜保存のための室むろから出してきた大根やニンジンを、あかぎれの手でゴシゴシと鬼オロシで下ろし始めたものでした。
「しもつかれ」には数々のドラマがあります。かつて「たんたん田んぼの高根沢」が文字通り「たんたん田んぼ」であった時代の話です。そんなドラマを、私なりにまとめてみると次のようなことになりました。
農家の嫁は辛い。誰よりも早く起き、誰よりも遅く寝る。家事全般、農作業、義父母はもちろん亭主の兄弟の面倒、さらには自分の子供の面倒も見なければならない。当時は子沢山が当たり前だった。
実家の父、母は息災だろうか。まだ幼い弟妹達は元気だろうか。そんな思いが募っても容易に里帰りなどできるわけがない。年の暮れ、いちおうの新年の準備が終わると、一日いや半日だけの短い時間里帰りが許される。手には歳暮の塩引き(塩鮭)。実家の両親を前に、
「父上様母上様、お久しぶりでございます。おかげさまで私も今年一年、嫁ぎ先で元気に息災で暮らすことが出来ました。」
と言って歳暮の塩引きを差し出す。手は霜焼けとあかぎれで真っ赤である。娘の苦労は何も言わなくても分かる。手を見ただけで両親は胸がいっぱいになって涙が込み上げてくる。しかしその手を前にしても娘に優しい言葉をかけることは出来ない。優しい言葉を少しでも口にしてしまったら、堰き止めておいた思いを止めることが出来なくなるからだ。ただ心の中で“農家の嫁はみんな同じ手をしていた。おまえの母も同じだった。辛くとも耐えて、嫁ぎ先をしっかり守って欲しい。”と念じるしかなかったのである。
短い里帰りが終わって娘は嫁ぎ先へと帰る。あとに残ったのは娘の持ってきた塩引き。当時塩引きは決して安いものではない。それだけに娘の一年間の苦労の結晶でもあったのだ。それを台所のカマドの上に掛け大切に毎日少しずつ食べる。そして節分の頃、掛けてあった塩引きは頭と背骨と尾っぽだけになる。それを材料にして「しもつかれ」を作る。父と母は、娘の苦労を噛み締めながら食べる。声に出して泣きたいくらいの娘への思いに堪えながら食べる。鮭の頭から染み出した塩分はちょうど涙の味がしたのかもしれない。
郷土料理の岩窟王「しもつかれ」のドラマがお分かりいただけたでしょうか。しかるに近年、この岩窟王「しもつかれ」が俄かに脚光を浴びたことがありました。平成十五年、みのもんた氏は氏の司会する昼の番組の中で、「しもつかれ」を長寿食として絶賛したのです。直後に宇都宮市の食品会社には注文が殺到し、生産が追いつかないほどでした。塩谷町出身の作曲家船村徹先生は「ご先祖さまが編み出した素晴らしい生活の知恵。栃木弁同様、温かい味がする。栃木の文化の代表だねえ」(下野新聞より)とおっしゃっています。「しもつかれを七軒食べ歩くと中気にならない」「なるべく多くの家のしもつかれを食べると無病息災である」これは古くから伝えられてきた言葉でもあるのです。
本来、命を繋ぐ食物にはそれにかかわった人の数だけ物語がありました。私たちは食物と一緒にそのドラマをも食べ、生物としての命を繋ぐだけでなく人間にのみ許された「心」をも繋いできたのです。
「食育」や「農食(食農とは言いません、農が先です)教育」が今、声高に叫ばれていますが、何も難しいことではないのです。足元を見つめ、あるもの探しをして見つめればいいだけなのです。食物の向こう側にある多くの人の思いをしっかりと感じる感性を、日々の生活の中に取り戻せばいいだけなのです。
※鬼オロシとは目の粗い竹製で、普段使っている下ろし金の親分のようなものです。
■こちらのコラムに関して
こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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