「道普請」運動。聞き慣れない言葉だが、こんな運動が北海道、中部・九州地方で始まっている。「普請」とは本来、大衆がお寺のお堂などの建設に労力を提供することを意味していた言葉だが、今では建築や土木そのものをさす言葉となっている。みんなで使う道の建設修理にみんなで汗をかいた、かつての「普請」の精神を取り戻して、道と我々の暮らしの関係はもちろん、「公と私」の関係を見直そうという運動である。
ヨーロッパ各地の歴史的町並みは、自分の好き勝手に建物を建てたいという「私」を犠牲にしながらも、そこに住む人々の景観を優先する公共心によって守られて来た。また、ワシントン郊外の家並みは、自治会という「公」が庭先の芝生の管理基準という「私」の世界にまで入り込んで実現できている。豊かな「私」があるためにはしっかりと確かな「公」がなければならないという考え方に貫かれている。そんな感慨を抱きながら足元を見ると、道路という、「私」が最初に出会う「公」に対する日本人の感覚の違いが鮮明になってくる。「路上に散乱するゴミは道路管理者の責任で私には関係ありません」。春から秋にかけて我々の生活に潤いと安らぎを与えてくれた街路樹も「落ち葉が迷惑だから役場ですぐに掃除しろ」といった事例は枚挙に暇がない。先月号にも書いたことだが「子どもたちの有り様は鏡に写った大人達の姿に他ならない」とすれば、成人者を批判する資格はわれわれ大人には無いことになる。青少年の健全育成などと声高に叫ぶよりもまず、自分の考え方や生きる姿勢を点検し、子どもたちの眼にわれわれ大人の背中がどう写っているかということに想像力を働かせることのほうが先である。
愛媛県の別子銅山をご存知だろうか。足尾同様、日本有数の銅山であったところである。今、別子の山々は、春は新緑、秋は紅葉がまぶしいほど美しい。その歴史を知らずに見れば広大な天然林の山々にすぎない。しかし、かつては別子の山々も丸裸であった。江戸時代初期からの銅山経営で、抗材用や燃料用として森を伐採し、さらには銅精錬の有毒ガスで木々を枯らしてきた。この丸裸の山々を再生したのは、銅山を経営していた住友財閥の第二代総理事・伊庭貞剛である。1847年生まれの伊庭貞剛は別子鉱業所支配人時代に、荒れ果てた山々を見ていた。『自然はこれまで銅山のために惜しみなく木材を与えてくれた。これを伐り放題、荒らし放題では「天地の大道に背く」』と考えた伊庭は、総理事心得に就くと同時に大植林を開始した。「春は笑い、夏は滴り、秋は粧い、冬は眠る」別子の山々は伊庭貞剛の高い志が育てた山々なのである。
足尾銅山の鉱毒問題を糾弾しつづけた田中正造は1901年3月の帝国議会において、別子銅山を「鉱山の模範」と言い、さらに「己が金を儲けさえすれば宜しいものだというような、そういう間違いの考えを持たない」と演説し賞賛している。
企業としての宿命である利潤追求と、人間共通の財産である「公」としての山々(森林)の関係。「私」としての権利の主張と地域住民共有の「公」との関係。その根底には『豊かな「私」があるためにはしっかりと確かな「公」がなければならない』という共通認識が必要だと思えてならない。21世紀の地域創りは、日本人が忘れてきてしまったそんな考えから始まるのだと、今、私は思っている。
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こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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