パンと脱脂粉乳、ビタドールゼリーにおかずが一品(ときどき二品)。脱脂粉乳はその上に張る膜と粉の残りのドロドロが苦手で好きになれなかったが、鼻をつまんで飲んだ。焼きそばやカレーがでると、われ先にとおかわりの手を挙げたものだった。今ではなかなかお目にかかれないクジラ肉も、頻繁にメニューに載った。これが一九六四年(昭和三九年)に小学校に入学した私の「給食」であった。余談になるが、給食でいつも食べていたクジラ肉を思うと隔世の感にとらわれる。「今晩はステーキよ」と言われて「やったー!」との思いで食卓に就くと、それはクジラのステーキで、「なーんだクジラか?」などという情景は今では夢のようである。
学校給食法が公布されたのは一九五四年(昭和二九年)。その時からパンを中心にした学校給食が全国に広がっていった。
それから十七年後の一九七一年(昭和四十六年)七月、東京でマクドナルド一号店が開店した。はたして日本でマクドナルドが成功するのか否か、業界では固唾を呑んでいたようである。その後のマクドナルドの破竹の勢いはいまさら説明するまでもないだろう。「マック」という単語はいまや立派な日本語になっている。
マクドナルドが日本に初上陸した一九七一年という年は、学校給食が始まった当時の小学一年生が二十代半ばに成長していた年である。給食のパンの味をしっかりと舌になじませた彼らは社会人となり、好みに応じて自分の財布から自由にお金を使うことができるようになっていた年でもある。米国資本の対日戦略としてまさに舞台は整ったといえるだろう。ちなみにこの年はまた、戦後の食文化史に残る日清食品のカップ麺第一号が発売された年でもあった。「ファストフード」の代表たるマクドナルドとその後世界を席巻することになるカップ麺が同じ時期に日本に登場したことは、決して偶然の産物ではなく、日本人の「食」が、変化の大きな節目を迎えていたといえるだろう。
最近「スローフード運動」という言葉をよく耳にする。この運動は一九八六年にイタリアのブラという町で始まった。現在世界中に七万人以上の会員がいるという。スローフード運動とは、ただ時間をかけて食べるということではない。食材や調理法、器を含めた食の雰囲気にまで目を向けることによって“食べる”ことの根源的な意味を意識することである。「身土不二」や「四里四方で食をとれ」という言葉に通じるものがある。
栃木県でも商工会連合会が日本スローフード協会の栃木事務局を開設したそうである。その中心を担う商工会連合会の稲葉事業部長は九月二二日付下野新聞紙上でこう言っている。「大量生産、画一的な味の文化が席巻する中、消えつつある郷土料理や伝統的な食材、またそれを提供する小規模生産者を守ることなどが目的です」と。さらにこんな注目すべき発言もしている。「私たちはこれまで早くて、便利で効率的であることを基本としたアメリカ型の経営手法(グローバルスタンダード)で会員企業などを後方支援してきました。しかし、生産性の高さから消費者の満足度へと価値観が変化してきた」なかで、「新たな支援策を模索する中、着目したのが地域固有の伝統と文化を重んじるヨーロッパ型の経営手法(リージョナルスタンダード)だったのです」。経済団体がグローバルスタンダードに異議を唱えることの重大さは、日本人の「食」が節目を迎えていた一九七一年に匹敵するのではないかと私は思う。時代は確実に変化している。稲葉さんはさらに嬉しいことを言っている。「行政や農業団体と連携して県内の知られざる逸品の掘り起こしや地産地消を推進するほか、生産者、流通、消費者がコミュニケーションを密にした、地域だからこそできるネットワークづくりをしたい。それが結果的に、いま叫ばれている食の安心・安全にも直結すると思います」と。
はなはだ手前味噌で恐縮だが、稲葉さんが述べているこれらのことは、私が四年前から訴え、具体的な政策として取り組んできたことと軌を一つにしている。
「アメリカ型の普遍性」を求めて外へ外へと向かっていたベクトルは、いまや同じ目的の為に内へ内へと向かっている気がしてならない。行き過ぎてしまった振り子を元に戻そうとする力がはっきりと見えてきた今、これまでの経験や過去の流れは疑ってかからなければならないだろう。であれば、時代の大きな流れを的確に掴むことこそ首長の最大の仕事だと考えている。
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こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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