私たちが考える「当たり前」が、いつも正しいとはかぎらない。「男は仕事。女は家庭。」というかつての当たり前は、今は当たり前ではない。背広にネクタイという服装は、明治維新後の脱亜入欧思想のあらわれだろうか。ヨーロッパの夏は湿度が低い。爽やかである。かたや日本の夏は高温多湿。夏だけに限れば、日本は熱帯だといっても間違いではない。フィリピンの政府高官の正装はたしか開襟シャツのようなものではなかったか。数年前に会ったミャンマーの工業大臣は、民族伝統の腰巻と皮のゾウリ履きであった。あれなら水虫にはならないと感心した記憶がある。背広にネクタイの「当たり前」も、そろそろ我々が自分の頭で考える時なのかなあとつくづく思う。背広を着て冷房をガンガンきかして、その一方で女性は寒さに震える。陳腐きわまりない。そして何よりもエネルギーがもったいない。子どもたちの目には、我々の姿は「裸の王様」の王様のように映っているにちがいない。
「不登校児ゼロを目指す」。よく聞く言葉である。最近は教育関係者ばかりでなく、政治家の公約にも登場してくる。この言葉の前提とする考え方はなんだろう。「学校に行くこと」が「当たり前」ということか。
「わが校には不登校の子どもは一人もいません!」と胸を張る先生がいる。文部科学省の方針に則って懸命に努力をしている先生である。「うちの子は学校に通っているから不登校ではない」と言う親がいる。世間体もあるのだろう。しかし、学びの場である教室に入る事ができず、保健室や相談室、校長室で一日の大半を過ごす子ども達がいる。しかも登校はしているので「不登校」の数にはカウントされない。「見える不登校」ゼロを達成した陰で「見えない不登校」が放置されているとすれば、ちょっとこれはおかしいぞ、ということになりはしないか。「不登校対策」とは、先生方の勤務評価や親の世間体を取り繕うためにあるわけではない。
それでは「見える不登校」が減ったのか?この十年、国は学校復帰対策として数々の施策を講じ、莫大な金額を投じてきた。にもかかわらず、「この十年間に年間三十日以上学校を休んだ不登校の子どもの数は小学生で2.6倍、中学生で2.7倍に増えた。生徒総数が小学校で百八十六万人、中学校で百二十万人減少している中でである。」(不登校新聞より主旨引用)。この統計が意味するものは、不登校対策の失敗以外の何物でもない。
この失敗は、不登校に対する考え方が間違っていたのか、それとも方法が悪かったのか。論を待たない。考え方が間違っていたのである。学校は最大公約数の子ども達にとって最も効率的で有効な学習の場であることを否定するものではないが、「学校だけが唯一」の学びの場ではないはずである。無理やり学校に引き戻すことに金と時間と人を使うより、学校にいけない子ども達がそれぞれに学ぶことができる場所と機会を用意するべきではないのか。不登校が何人いるかではなく、不登校の子ども達がどのように学べているのか、をこそ問題にするべきなのである。不登校問題における「失われた十年」を検証するとき、そう思わざるを得ない。
「学校に行くことが当たり前」でなく、多様な学び方が「当たり前」になった時、先生も親も子ども達も、どんなに心が楽になるだろう。子どもの視点からはおよそかけ離れた「当たり前」、がもたらした桎梏(しっこく・手かせ足かせの意味)から自由になれるのではないだろうか。
「学校行けなくて苦しい
学校行きたくなくて苦しい
学校行って苦しい
学校に来た私を見て
よかったよかった
先生なにがよかったの
父さんなにがよかったの
母さんなにがよかったの」
『あかね色の空を見たよ』(著・堂野博之)より
■こちらのコラムに関して
こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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