「天に貯金をする」という言葉があります。昭和三十二年生まれの私の年代には聞き慣れない言葉ですが、祖父や祖母との記憶の中に確かにこのような言葉があった気がします。「お天道様は必ず見ている」とか「天知る、地知る、我知る」とか、記憶を丁寧にたどれば、その他にも祖父がよく言っていた言葉が思い出されます。
「天に貯金をする」とは、人に喜んでもらえるような行いを重ね天に貯金をしておくと、後で利息をつけて必ず還ってくるということを意味しているそうです。しかし、すぐに実を結ぶときもあれば、何十年もかかるときもあり、その見返りも、人間は一代かぎりではなくずっと続くのだから、自分の代ではなくても、後の代に見返りがあればいいではないかということでもあるようです。
今日、平和で物も豊かにあり「言えばきりがない贅沢」を言い続けることができるのも、祖父祖母、父母そしてたくさんの先輩方が「天に貯金」をしてくださったからなのだと思います。でもそろそろ、その貯金も底をつき始めた気がするのは私の思い過ごしなのでしょうか。確かにコツコツと貯金をしてくださっている方々はいます。しかし一方で、下ろすことだけで積むことをしない方が多くなれば、貯金が無くなるのは当然のことだと思うのです。
最近私は、元環境庁長官・衆議院副議長の故鯨岡兵輔先生の言葉をしばしば思い出します。
「たしかに今日は大切です。
今日の不幸は悲しいことです。
今日を楽しみたいことは誰だって同じです。
しかし明日に続く今日だと考えた時に、明日はどうなっても今日だけを楽しめばよいとは考えません。
人の子の親が苦しむのも、自分だけの安きを求めるなら、苦しまずにいくらでも安楽な道のあるものを、苦しみ苦しむ一生は、自分の次に子があるからでしょう。
自分が親からしてもらったより、もう少しでも加えて子にしてやりたいと親は思います。
省みて自分の生涯が辛ければ辛いほど、せめて子供には幸多い生活を譲りたいと親は思うでしょう。
それは自分の今日を思う心でなく、子供の明日を願う心なのです。」
「天に貯金」をすることを忘れてしまったことは残念なことですが、その原因を考えたとき、現在のこの国の状態が大きく関係していると私は思います。国による画一的な国民の最低限度の生活保障や社会基盤整備がある程度達成され、欲を言えばきりが無いけれどもとりあえずは最低限の生存条件は備わっていて、不満と言えば不満であり満足と言えば満足という閉塞状況の中に人々はいるような気がします。
かつての「道普請」や「結」といった地域互助制度は、もちろん日本がまだ貧しかったがゆえに生み出された人間の知恵ではあるにせよ、人々は地域の中で「頼られている、無くてはならない自分」を実感し、物欲をこえたところにある人としての本当の満足を得ていたのではないでしょうか。そこには貧しいけれども生きる証を確かに感じることのできる生活があったように思います。最近顕著になってきた、高齢者の方々が積極的に社会貢献したいという動きは、生きている人間としての本当の満足や幸福というものがどんなことなのかを示してくれています。昔から繰り返されてきたように、人間というものは「天に貯金」をしたいのです。何故なら、そのことが生きる証につながるからなのです。町民の皆さんを主人公に運営している「エコハウス」や「ひよこの家」にたいしてボランテイアで関わってくださっている方々を見るにつけその思いは強くなってまいります。
今年ももう十二月を迎えました。振り返って満足もあれば反省もしきりです。来年は「元気に挨拶をする」とか「履物を揃える」という、大切な基本だけれども忘れがちな小さなことを、もう一度しっかりやり直してみようと思います。まずそこから「天に貯金」を始めたいと思うのです。
■こちらのコラムに関して
こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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