今年も卒業式の季節が終わりました。そしてもうすぐ入学式です。毎年この季節には、小中学校の卒業生や入学生にどんなお祝いを言おうかと鉛筆をなめなめ思いをめぐらせます。良い言葉が浮かんでこない時には無造作に時間が過ぎ、灰皿にはタバコの吸殻が虚しく溜まっていくのです。かつて何度か禁煙を試みましたが、文章を書くときにタバコをくわえる習慣が染み付いてしまっていて、タバコの煙と同時に言葉が浮かんでくるという条件反射がどうやら出来てしまっているようです。もっとも、どんなに理由を後付けしようとも、究極は自らの意志の弱さであることは否めないのですが。
挨拶の時、私はもともと原稿は読まない主義でした。頭の中で言おうとする事を組み立てていって話をすることがほとんどです。今でもそのことに変わりはないのですが、卒業式や入学式はそうはいきません。なぜなら、私が出席できるのは小中学校それぞれ一校しかないからです。町長代理で出席される町職員の方にも同じ事を話していただかなくてはならないからなのです。
そんな訳で今年も自分で文章を作りました。その中で小学校の卒業式で述べた祝辞の内容にはたくさんの方々からお褒めをいただきました。そして同時に、卒業式出席者だけではなく、広く町民の皆様にも伝えるべきだとのご意見もたくさん寄せられました。ですからこの欄で報告したいと思います。
小学校卒業式祝辞
卒業生の皆さんに「三本指の話」をしたいと思います。
人間は誰でも弱いものです。ですから、辛いことや悲しいこと、そして苦しいことがあると、誰かのせいにしたくなります。
先生が悪いからだ、両親が悪いからだ、友達が悪いからだ、町長が悪いからだ。責任をよそにかぶせることで、自分の気持ちが楽になったように感じるのかもしれません。でも、それでは本当の解決には繋がらないことだと思うのです。
皆さん、人差し指を出してください。その指で私を指してみてください。その指が町長を責めている指です。それじゃあ、そのままで手を見てみましょう。確かに人差し指一本は私を指しています。でも、残りの三本、中指、薬指、小指は自分のほうを指しているのです。これは、三本の指それぞれが、「他人を責める自分の心に誤りはないか。他人のせいにする心に甘えはないか。他人のせいにする前に自分はベストを尽くしたのか。」つまり、他人のせいにしたり、他人を責める前に、よく自分を振り返ってみなさい、ということをこの三本の指は教えてくれているのだと思うのです。
宇野信夫という劇作家の、「親になる」と「親となる」という言葉の違いを書いた文章を読んだことがあります。子どもを産めば「親になる」から犬や猫でも出来ることですが、親といわれるような「親となる」ことは難しいことだ、と書いてありました。「に」と「と」だけの違いですが、この二文字の間には大きな違いがあるようです。
皆さんは今日卒業します。そして来月には当たり前のように中学生になります。家族の方々にとって中学生といえば、とても頼もしい存在です。その分責任も重くなります。どうか、「うん、やっぱり中学生だ」といわれるような「中学生と」なってください。
苦しいときや辛いとき、他の誰かに責任をかぶせて自分を楽にしたいなあという気持ちが起こったときに、今日のように人差し指を指してみて残りの三本の指を見つめられるようになること、これも「中学生となること」の一つなのかもしれません。
卒業おめでとう。みんなが元気で成長することを、心から願っています。
これからも出来る限り自分で原稿を書いていくつもりです。ですから、わが町の総務課には町長の原稿を専門に書く職員はいません。町長専用車と専属ドライバーも一昨年の六月から休止にしました。自分で運転するか職員のクルマに便乗するか、どうしてもの時はタクシーを利用しています。市町村長の会議の時、専用車がないのは自分だけなので寂しい気もしますが、このことは厳しい行財政改革の断行によって職員への負担を増やしている町長の義務だと考えています。
ちなみに町役場の職員数は平成十一年四月には二三八名でしたが、今年の四月一日現在は二十二名減の二百十六名となりました。その間、人口は二千人以上増えているにもかかわらずです。
そんな職員の頑張りを町民の皆様に知っていただきたく思います。
■こちらのコラムに関して
こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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