クールビズ
先日、栃木県町村会の役員会があった。今や会議での各町村長の服装は様々である。背広にネクタイもいれば、ノーネクタイから開襟シャツまで。隣に座られた鈴木大平町長が私の顔を見るなり、「高橋さんはずっと以前からクールビズの実践者だから今さらどうってことないよね。」と言った。
小泉純一郎氏が率先してノーネクタイ姿を披露してから二ヶ月が経つ。「クールビズ」花盛りである。朝日新聞の調査によれば、調査した三〇八六人中、約九割の人がクールビズを好ましいと答えたという。かつての「省エネルック」は見事に失敗に終わり今や伝説となっているが、今回の「クールビズ」はなかなかしぶとく浸透し始めている。小泉純一郎氏の首相としての立場とそのキャラクターが大いに影響しているようである。
広報たかねざわ平成十五年六月号の「夢だより風だより」第四十六想に私はこんな事を書いていた。
私たちが考える「当たり前」が、いつも正しいとはかぎらない。(中略)背広にネクタイという服装は、明治維新後の脱亜入欧思想のあらわれだろうか。ヨーロッパの夏は湿度が低い。爽やかである。かたや日本の夏は高温多湿。夏だけに限れば、日本は熱帯だといっても間違いではない。フィリピンの政府高官の正装はたしか開襟シャツのようなものではなかったか。数年前に会ったミャンマーの工業大臣は、民族伝統の腰巻と皮のゾウリ履きであった。あれなら水虫にはならないと感心した記憶がある。背広にネクタイの「当たり前」も、そろそろ我々が自分の頭で考える時なのかなあとつくづく思う。背広を着て冷房をガンガンきかして、その一方で女性は寒さに震える。陳腐きわまりない。そして何よりもエネルギーがもったいない。
新しい風を起こしそれが途中で止まないためには、風を起こす人間の立場やキャラクターが重要な要素となる。高根沢町長がどんなに頑張ってみたとて「少し変わってる奴だ」と片付けられてしまうのが関の山だったという現実を今さらながらに思い知ったということである。ただし、おかげで高橋は「変人」から脱出できたということも事実ではあるのだが。
町外に住む町出身の方々の中には、いつも故郷高根沢を思い、的確なアドバイスをしてくださる方がいる。台新田出身の岡田勝美氏もそのお一人である。氏は東京で旅行会社を経営されているが、先日こんな主旨のメールをいただいた。「政府は外国人の観光客誘致政策を掲げて、大きな予算を組んで、来日者数の倍増を計画していますが、計画通りに実績が上がっていません。空港や旅館、ホテルの整備といった政策(旧態依然の箱物発想)に重点が置かれているからです。外国人は富士山を見たり、新幹線に乗りたいだけで来るのではなく、映画「ラストサムライ」で描かれたような美しい「日本人」に接し、文化に接し、歴史に触れたいのです。当の日本人に魅力がないから外国人が来ないのです。」
幕末に来日したイギリスの外交官オルコックは著書の中で、庶民の暮らしの中に息づく文化の質の高さに感嘆の念を向けている。大森貝塚を発見したモースは、貧しい人々であっても礼節を重んずる日本人の品格の高さを礼賛している。イギリスの旅行家イザベラ・バードの著作には、貧しい暮らしにあっても失わない庶民の優しさ暖かさ、そして「足るを知る」人々の暮らしが細かく記されている。
当時アジアの植民地化を進めていた欧米列国の思考パターンは「宣教師的見方」というものだった。これは「世界をキリスト教国と異教国とに二分し、キリスト教国の最善の部分と異教国の最悪の部分だけを捉え、異教国を劣っているとみる見方の事である」(前浜佐知子氏論文より引用)ということであり、だとするならば、これら欧米人の日本と日本人への評価は異例のものであると言うことができる。なるほど岡田勝美氏の論はまさにその通り正しいのである。
さて今回のクールビズ騒動。ただ単にネクタイの有無などという姿形の議論ではなく、この国の歴史・文化を再確認する機会としたいものである。安政三(一八五六)年に来日した米国ハリス総領事は「日本の衣食住に関する限り完璧なひとつの生存システムを、ヨーロッパ文明とその異質な信条が破壊する。物質文明が日本の真の幸福になるだろうか。」と書き記している。ネクタイとはもしかすると「ヨーロッパ文明とその異質な信条」の象徴であったのかも知れない。
■こちらのコラムに関して
こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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