「微力は無力ではない」
今回の大震災で、私たちは多くのことを知りました。
自然というものが、とうてい人智の及ばない圧倒的な力を持っているという厳粛な事実。エネルギーを湯水のごとく使い、たくさんの食料を廃棄してきた生活が、実は深刻な危険と隣り合わせであったということ。
一方で、今回の大惨事に直面して、私たち日本人の秩序正しさや、互いを思いやる心がきちんと残っていたことも知りました。スーパーのレジに並んでいた子どもが、順番が近くなり、レジを見て考え込み、レジ横にあった募金箱にお金を入れて、お菓子を棚に戻して出て行きました。「ゲーム我慢する。これで地震の人の家建てる」と言ってお年玉の五千円を差し出した幼稚園児がいました。
高根沢町でも大きな被害があり、その傷が癒えるにはまだまだ時間がかかります。そんな中で、自らが被災者であるにもかかわらず、自分たちよりも遥かに甚大な被害を受けられた東北の人々への支援に動かれた町民の方々。
南相馬市へ草の根レベルで支援物資を届けられた神山さんは、幼子二人のお母さんでした。ご主人の仕事の関係で当地の惨状を知り、居ても立ってもいられずに、ご近所の方々に声をかけ支援物資を集めました。でも運ぶためのトラックがありません。トラックを持っている近くの商店(知り合いでもなんでもない)に飛び込み、トラックを貸してくださいとお願いしたそうです。その商店のお上さんは「涙をぽろぽろこぼしながら、南相馬の人達を助けたいので貸してください、と言うんです。その熱意に負けました。」と話してくれました。その後分かったのですが、神山さんのご自宅も地震で損壊していました。
上高根沢西根のKさんから町へ電話をいただいたのは三月二十二日でした。
「西根親遊会で陸前高田市への支援物資米六俵を準備した。何とか送りたい。」とのことでしたが、その当時、町では支援物資を届けるだけの余裕がありませんでした。三月二十七日、親遊会の方々自らが、米六俵とトマトを陸前高田市災害対策本部に届けられました。その後、現地の状況、さらには継続的支援の必要性を説いた報告が役場に寄せられました。
三月二十八日には、支援部隊を編成する余裕の無い町に代わって、元気あっぷ公社手塚社長を先頭に、支援物資満載のトラックとワゴン車が陸前高田市へ向かいました。松本町議会議長も参加してくださいました。
四月六日、七日両日は町商工会青年部が宮城県七ヶ浜町と岩手県陸前高田市へ。トラック二台、バス二台の支援隊には支援品だけではなく、炊き出し部隊も同行。約八百食の炊き出しや、避難所の子どもたちとのサッカー、輪投げ、ストラックアウトなどを行いました。
砂部工業団地の方々で組織されている「ものづくり会」では、かねてから交流のあった陸前高田市の水産業者からの「皆様のご好意で支援物資は足りていますが、一番困っているのはお風呂に入れないことです。ものづくり会で簡易風呂の製作は出来ませんか」との要請に応え、四月十二日未明、浴槽六台、湯を沸かすドラム缶六本、間仕切り用のコンパネを積んだトラックで高根沢を出発。早朝に現地到着。休む間もなく、避難所となっている各公民館やお寺に向かい、設置完了となりました。
この原稿を書いているのは締め切りギリギリの四月二十二日ですが、明日二十三日午前一時半には、町農業会議・農協青年部・町民有志をメンバーとし、鈴木克利農業委員会会長を団長とする「高根沢町陸前高田支援隊」約三十名が出発します。
ここに書いたことのほかにも、多くの町民の方々が、それぞれの出来る範囲と形で支援してくださっています。微力ではあっても無力ではありません。微力が集まれば大きな力になることを信じています。
こんな素晴らしい皆さんと共に生きることのできる高根沢を、誇りに思えることの有り難さ。心から感謝申し上げます。
■こちらのコラムに関して
こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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