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この国を滅ぼしたくない

かつのりコラム

高橋かつのりが自身の考えや想いを綴るコラム『夢だより 風だより』

夢だより 風だより【第百八想】『合言葉「手間暇かけて」について』
2011.10.01

合言葉「手間暇かけて」について

 「手間暇かけて」という合言葉は、平成十八年、「地域経営計画」を策定した時に掲げた合言葉でした。「地域経営計画」とは、自治法上で地方自治体に十年ごとに策定が義務付けられた振興計画のことですが、高根沢町では町の役割を経営という視点から組み立て直すという思いから、経営計画という名称にしました。当時、担当職員を中心に、全職員に問題意識を投げかけ、「地域経営計画」に相応しい合言葉を募り、最終的に町長である私の判断で決定しました。

 なぜ合言葉が「手間暇かけて」なのか。その時の思いは、今でも忘れずに鮮明に覚えています。

 

 太平洋戦争後の日本は、日本人が本来持っていた「利他の精神」や「惻隠の情」を忘れ去り、「今さえ良ければ、自分さえ良ければ」という精神に害されてしまいました。本来、地球が与えてくれる果実の範囲内で、有限な地球資源を利活用するべきであるにもかかわらず、どこまでも便利であることが善であり、手間なし手間要らずこそが幸福であるとの考えから、地球の持つ元金にまで手を出してしまったのです。本当は孫子の代に、その孫子たちが受け取るべきものを、今を生きる我々が先食いしてしまっているのです。そしてこの「今さえ良ければ、自分さえ良ければ」という考え方は、地方自治体という土俵から見ると、「たいへんなことは行政がすべてやってくれる。行政は住民を一方的に楽にすることが仕事である」という、自治本来の意味からは程遠い町の姿を作り上げてしまったように思えてなりませんでした。

 この考え方を改めなければ、日本という国の未来は無い。高根沢町という小さな自治体からではあるけれども、今の世間の風潮に、アンチテーゼを掲げて、もう一度足元から生き方を見つめなおす必要があるのではないのか。変えなければならないものを変える勇気と、変えてはいけないものを守る冷静さと、そしてこの二つを見分ける知恵を持ちたい。そのような思いがありました。あれから五年が経ちましたが、五年前に掲げた高根沢町の考え方の方向性は正しかったと感じています。

 

 三月十一日の東日本大震災による原発事故によって、私たちは生活の土台を支える電力の問題を喉もとに突きつけられました。

 「手間なし手間要らずで、より便利になるために、電気をジャブジャブ使っても、電力会社は我々が必要な電気を作る責任がある。たとえそれが、原子力という人間の力では制御不可能な側面を持ち、一度事故が起きれば、取り返しのつかない被害をもたらすものであっても、目の前の便利・快適を手に入れるためならば背に腹は変えられない。政府も電力会社も安全だと言っているのだから、大丈夫だろう。」 残念ながら、そして恥かしながら、我々の認識はこんなものでした。

 今を生きる人間にとって、「今」が大切なのは当然です。しかし「今」のことしか見ずに、孫子に大きな負担を残すとすれば、それは本当の意味で「今」を大切にしていることにならないと思うのです。

 

 この文章を書いている今日は「敬老の日」。私たちの父母の世代は、自らの人生の前半が辛く厳しいものであったからこそ、子どもたちには二度と同じ苦労をさせたくないとの一念から身体を張って家族を守ってくれました。父・母の世代の方々が居てくださったから、私たちはひもじい思いを知ることなく自分の夢を追い求めることが出来ました。自分が食べなくても子どもたちに食べさせ、物が無ければ無いなりに手間暇かける知恵で育てられたのだと思います。

 だからこそ、高根沢町が五年前に掲げた「手間暇かけて」という合言葉の持つ、人間の生き方と自治の本質を問う意味と意義を、一人でも多くの町民の方に分かっていただきたいと思っています。

 宇都宮市在住の百歳になる詩人・柴田トヨさんの詩を読んでいて思いました。「幸せは、なるものではなく、気付くものかも知れない」と。

■こちらのコラムに関して

こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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