日本には世界の中で礼賛されてきた先人が沢山います。しかし、そのことを伝 える努力を私たちは怠って来てしまいました。今回は、以前から伝えたかったこ とを書きたいと思います。
エルトゥールル号事件
一八九〇(明治二十三)年九月、日本への表敬訪問を終えて帰路に着いたトル コ軍艦エルトゥールル号が、折からの台風による嵐の中、和歌山県串本町の大島 沖で座礁しました。六五〇名の乗組員の多くが亡くなった、当時では世界最大の 海難事故でした。九月十六日夜半、嵐の海を何とか泳ぎきった乗組員が、大島の 突端にある樫野崎灯台に助けを求め、遭難が分かりました。夜半から翌日にかけ ての暴風雨の中で救助作業は困難を極めましたが、大島の村民たちは村をあげて の救助作業を行い、三百名以上の遭難者を引き上げ、そのうち六九名の命を救う ことができました。村民たちは、災害時のために保存していた穀類や鶏など全て を供出してトルコ人遭難者の救援に当たりました。このことは、当時のオスマ ン・トルコ国民を感動させ、教科書にも紹介されました。世界でも最も厚いとい われるトルコ国民の親日感情の礎は、大島村民の行動によって作られたものなの です。
九十五年後の一九八五年、イラクのフセイン大統領はイラン・イラク戦争に際 し、「今から四十八時間を期限に、イランからの飛行機は撃墜する」と宣言しま した。在イランの邦人は、日本からの救援機がなく取り残される運命にありまし たが、その時に、トルコ政府は在留邦人を救うために自国の航空機を派遣してく れました。当時の在日トルコ大使は「かつてのエルトゥールル号の時の恩義に報 いるためでもあった。」と述べています。
稲むらの火
「稲むらの火」の舞台となったのは和歌山県広村(現広川町)というところで す。一八五四(安政元)年十一月に起きた大地震に伴う大津波の時に、広村の庄 屋であった浜口梧陵という人は、自分の田んぼで収穫したばかりの穂の付いた稲 (稲むら)を燃やして、村人たちを救いました。戦前の国語の教科書には「稲む らの火」という題名でこの話が載っていましたし、この実話に大変感動したラフ カディオ・ハーン(小泉八雲)によって、「生き神さま」という題名で全世界に紹 介されました。
小泉純一郎さんが首相当時、マレーシアでインド洋大津波に関する会議が開催 され、その時、シンガポールの首相から「あの日本の『稲むらの火』の話は実話 ですよね?」と訪ねられましたが、小泉首相は、「稲むらの火」の話を知らず答 えられませんでした。
浜口梧陵氏には八人の子どもがおり、末っ子の浜口担という方は大学教授にな りました。明治時代の末、彼は英国のジャパン・ソサイエティで「江戸期の女性 史」をテーマに講演をしました。その場所でこんなことがありました。講演後の 質問の最後に「今日のテーマに関わらない質問ですが、私は『浜口』という名前 に強い印象を持っています。それは『生き神さま』という話の主人公も浜口だか らです。同じ名字の方は多いと思いますが、その主人公と先生とは何かご関係が ありますか?」遠いロンドンの地で父親の名前を聞くとは予想もしていなかった 浜口氏は、感極まって涙が落ちるのを止められませんでした。驚いた司会者が浜 口氏に駆け寄り涙の理由を問いました。「その浜口は私の父です」司会者は席に戻 り「その浜口氏こそ、この浜口先生のお父様でいらっしゃいます」と紹介するや、 来場者は一斉に立ち上がり、会場ではいつまでも拍手が鳴り止みませんでした。 付け加えれば、「稲むらの火」の主人公である浜口梧稜氏はヤマサ醤油七代目当主であり、津波 被害を受けた広村の再建にも私財を投じられました。現存する長さ六五〇m、高さ五m の広村堤防は浜口氏が作ったものです。
世界の人々が賞賛する先人の偉業をどうして私たちは知らないのか?残念でならない と感じています。
■こちらのコラムに関して
こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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